【中島優子ヒストリー】第3話~子ども大好き保育士の育児の現実~
【中島優子ヒストリー】第3話
目の前の子どもの問題を大葛藤するとともに・・・
保育の業務への疑問を感じるようになっていた。
毎日、外遊びが取れないほどのカリキュラムをこなすことが精一杯。
運動会・発表会は見栄えも大きなポイント。
保育も5年が過ぎたころ。
園の厳しいチェックをクリアするために、
統率の取れた子どもへの指導
そして見栄えのする素敵な衣装作りをいつしか自分のためにするようになっていた。
子ども第一ではなくなっていく自分に気が付き始めた。
当たり前だが・・・出来上がったクラスの様子よってはと厳しい指導
暗黙の了解であるかのような最低限の条件は当たり前にクリアしなければいけない。
クラス、先生の評価が私の仕事としてのすべてになり始めてた。
そして、私自身もちろん良い評価が欲しいと思った。
精一杯、仕事に時間を費やすが・・・次第にそれは自分の立場を守るために変わっていってしまうような感覚に感じられた。
あの死角になる・・・あの廊下の風景・・・あの瞬間を今でも思い出す。
その場所でほっと一息をついたあの日。
私の目の前にいる小さな子どもたちの頭の上をずっと越えて
その先にある教室の先生たちの顔しか見えていない。
子どもたちよりも先生の目のほうが、わたしにとって一番になってしまった。
そして、常に「イエス」だけが求められる。
私に転機が訪れる
私自身の在り方、保育に疑問を持ちながら・・・育児休暇
出産
2002年 母親になる
当たり前だが人生で味わったことがないほど、愛おしかった。
毎日、本当に食べてしまいたくなるほど可愛かった。
可愛さのあまり年子で次男を産むことにした。
と同時にこんな子育てがしたいとも考えていた。
保育士の経験・自分の生い立ちなどから
✧自分の意見を言える子になってほしい
✧我慢しないで自由に表現できる親子関係を築いていきたい。
✧自分の欲しい人生を手にしてほしい
そのために私に何ができるかとアンテナを張りだしたところ、
すぐにベビーマッサージやベビーサインに出会う。
そして2004年にベビー系教室を開く
3歳で園に出す前にやっておくべきこと。
そんな教室がスタートした。
当時はあまり深く考えずに、もちろん起業という言葉すら知らず伝えられる手段として教室をスタート
そうこう家事・育児・仕事に忙しくしているうちに・・・またあの感覚が訪れた。
ヒトに良い評価をされるような子育てをしなければいけない。
おむつは当たり前のように早くとらなけばいけない。
食事はインスタントを使ってはいけない。
買い物かごに入れているところを地元の仕事関係者に見られてはいけない。
見本となるような子育てをしないといけないという恐怖感に襲われながら過ごすことが増えてきた。
すると・・・
子どもに対してイライラすることがドンドン増えていった。
「あ~しなさい。こ~しなさい。」
「何回言ったらわかるの~。」
子育ての正解を探しているような毎日だった。
私は母親であっていいのだろうか